ジェファーソン・キーンの死刑

 
舞台は、死刑囚・終身刑の重罪囚ばかりの監房。
ことの起りは、ある黒人の同性愛者が、いわゆるストレートのイタリア男に岡惚れし、ちょっかい出したこと。
イタリア男は激怒し、この黒人同性愛者を、病院送りにする。
これが、監房内の黒人vs.イタリア人一派の対立へと発展する。
(さらに、このイタリア男とシャバで因縁があった、一匹狼のアイルランド人が暗躍する)
 
この黒人同性愛者の、兄である男が、このイタリア男を殺す指示を出す。復讐につぐ復讐の惨劇は、こうして幕を開けた。
この兄は、罠にはめられ、期せずして人を殺してしまう。
州法に死刑制度を復活させたばかりのため、さいしょの死刑囚として手ごろという、知事の思惑もからむ。正当防衛の要素もあるのに、かれの死刑への流れは止められない。
 
・・しかしやがて、かれに、復讐の連鎖をとめたい、という気持が芽生える。
そしてブラック・モスレムの長、サイードとの出逢い。熱烈な宗教心に支えられ、かれの最期は、意外とやすらかであった。
この、黒人同性愛者の兄の名を、ジェファーソン・キーンという。
 
この監房の責任者・マクマナスが、女看守の1人に訊く。
「きみは、かれの死刑を見学しないのか?」
「花が散るのを見るのも嫌なのよ。ひとの死ぬところなんて、見たくもない」
でも、鹿が死ぬところなら見たことある、と前置きし、彼女はしみじみ語りはじめる。
 
まえの夫が、狩人だった。いっしょに連れてってとせがんだら、しぶしぶ連れてってくれた。初めての狩で、鹿に出くわし、あわてて撃ったら命中してしまった。(ビギナーズ・ラックというやつだろう)
かけ寄り、その鹿の首を抱き上げると、鹿はきらきら光る眼で見上げてきた。ごめんね・・と言うと、鹿の眼が、電池が切れるように、すうっと光を失った。
 
「離婚までの2年間、夫の部屋に入るたびに、壁にかけられた鹿の首を見てすごした。離婚のとき要求したのは、その鹿の首だけだった。・・土に埋めたの」
 
この会話の場面のあと、物語は、キーンの死刑場面に映る。
・・・ 
ここで、ありふれた演出なら、かならず、鹿の映像を入れちゃったでしょうね。走る映像、撃たれて倒れる映像、スローモーションで。膝に抱き上げられ、ふるえる瀕死の鹿のアップなど。
そこまでしなくても、死刑囚の眼の光が“電池が切れるように消えてゆく”演出ぐらいはしただろう。
『OZ』は、それらを一切、しなかった。
 
「何か言い残したいことは?」と、所長に訊かれたキーンは、過去の罪を悔いることばを淡々と語る。眼が、ぐっとアップになる。まなざしは静かで、ああ薬物注射が効いた、いま死んでゆく・・という演技さえ、しなかった。
すべてを、見る側の想像力にゆだねた。
 
視聴者の知性を信じてないと、こういう極限まで抑えた演出は、できない。こういうのを、大人の娯楽、というのだ。
 
キーンの父親が、息子との最後の面会のあと、ふりしぼるようにつぶやく。
「親は、子どもの死んでゆくところなんか、見るべきじゃないんだ・・!」
このセリフ聞いた瞬間、泣けてきて、困った。
じっさい、こう言いたくなる立場に置かれて、泣ききれないほど泣いてるはずの友人知人が、何人かいるから。
私にこういう経験はないけど、自分がこう言いたくなるような立場だったら、身につまされて、ここで見てられなくなったろう。
 
『OZ』は、ただ過激さ、残酷さだけが“売り”のドラマじゃ、ない。