“ピアノ・マン”といっても、いま話題の、英国に漂流した、記憶喪失の男ではない。
ビリー・ジョエルの、あの名曲とも関係ない。
 
あれは何年か前、TBS『ニュース23』の、「ボスニア・ヘルツェゴビナ/紛争地帯を行く」とかいう特集だった。危険地帯に行くのを信条とする、たしか“山路”さんというジャーナリストの取材だった。
(うろおぼえです。ちがってたらごめん)
ボスニアのあるホテルのロビーに、毎夜あらわれてはピアノを弾く男がいる、というウワサを聞き、かれは取材に行った。
道々、警告もなしにいきなり発砲され、カメラマンに「走れ!」と叫びながら。
 
ようやく、ホテルにたどり着く。
ホテルといっても、すでにガレキの山。むしろ、廃墟といったほうがふさわしい。電源も切れたらしく、ロビーはまっくら。・・その闇の中から、静かなピアノの音。
 
このとき、このピアノ・マンが、どんな話をしたかは、おぼえてない。(たぶん民族問題について話してたんだろうが、このころの私には理解できなかった)
鮮明におぼえてるのは、話の最中、遠くかすかに銃撃の音が聞こえてきたとき。
ピアノ・マンはふと話を中断し、親指を立てて苦く笑い、つぶやいたのだった。
「聞けよ・・あれが、政治家たちの音楽だ」と。
 
もう1つ、忘れられないこと。
廃墟と化したホテルのロビーの闇の中で、このピアノ・マンが弾いてたのが、ベートーベン『月光』だったこと。
 
ナチス・ドイツが、ユーゴって国に何をしたかは、坂口尚『石の花』にくわしい。かんたんにまとめると。
大戦前、ユーゴには5つの民族が共存。おもにクロアチア人と、セルビア人が対立してた。戦前は歴史の流れで、セルビア人が優勢だった。
戦争に突入すると、クロアチア人は反発。イタリア帰りの指導者を長に、ファシスト政権による独立国を樹立。ナチスの“ユダヤ人狩り”にならい、純粋なクロアチア人の国家をつくるため“セルビア人狩り”をし、どんどん収容所に送りこんだ。
ユーゴは三国同盟入りを拒否したため、ナチス・ドイツの凄まじい攻撃を受けた。が、それでも敵国ドイツに殺された人数より、内戦でおなじ国の人同士が殺し合った数のほうが、多かったという。・・つまり、これがいまだに、紛争の火種になってるってことだ。
 
そういう流れを知った上で、ドイツ人であるベートーベンの『月光』を弾いてた、あのピアノ・マンのことを思い出すと・・。
ヤラセでは、なかったと思う。あの場面に、これ以上ないほど、ふさわしい曲だった。
以来『月光』聴くと、このピアノ・マンのことを思い出さずにいられない・・かれはまだ、元気だろうか?