ETHAN2005-07-25

土曜の午後、何かに吸いよせられるようにNHK教育にチャンネル合わせ、ぐうぜん見ることができた。・・『ユーリ・ノルシュテイン、日本を行く』
番組について書くまえに、ちょっと前置きをば。
 
ノルシュテインという、ロシアの芸術アニメ作家を、ごぞんじですか。
私がこの人を知ったのは、18年前。87年に広島で開催された、国際アニメ・フェスでのこと。
はじめて見た、やわらかいコンテの線、銅版画のようなくすんだ色合い、北方の民話ふう詩情あふれる作品世界。それだけでもじゅうぶん驚きだったけど。
この人は日本の浮世絵好きで、とくに北斎がお好き。インタビューでは「もののあわれ」とちゃんと日本語で言った、というのも驚いた。
大会会場の廊下で、いきなり本人が現れたのが、最大の驚き。ドキドキしてると、そばにいた先輩が一言。「よく見ときなさい、一生に一度しか会えない人だから」と。
ソビエト連邦が崩壊、ロシア人が自由に国外に旅行できるようになったのは、この4年後、91年のことだった)
 
古い日本文化が好きならば、というので、広島のおみやげ屋さんで千代紙を買ってきて、手渡した。そのとき、パンフのメモ欄の空白に、絵を描いてもらった。
画像を載せときます。ジャムの包み片手のハリネズミさんの絵、サイン入り! わが家の数すくない家宝だなあ、これは。
 
いまだに眼に焼きついて離れないのは、私が絵を描いてもらった後だったか、ノルシュテインが廊下にすわりこんでる姿。
周囲には誰もいなくて、かれは1人きりだった。アニメ・フェスのロゴ入りテレホン・カードを手に、サインペンでその余白に、しきりと何か書こうとしてた。ところが、インクが印刷にはじかれてしまい、どうしても線が引けない。ウラに描こうとしてもダメで、かれは、途方にくれたような顔をしてた。
サイフと入場券ぐらいしか持ってなかったし、上映時間がせまってたので、横目で見ながら通りすぎてしまったが・・なぜあの時、どっかからボールペンなりメモ帳なり探してきて、渡してあげなかったかと、思い出すたび、胸がいたむ。
 
87年当時のパンフを見ると、すでに「長期にわたってゴーゴリ原作『外套』製作中・・」と書いてある。
その『外套』を、ノルシュテインは、いまだに製作してるのだよ! なんとすでに25年がかりとか。本人は「まだ半分しか出来てない。完成できるだろうかと思うこともある」と言ってた。
ソ連邦の崩壊前後、ほとんど製作できない時期もあったそうだ。じつはユダヤ系なので、いろいろ、あまりひとには言えない苦労もあったらしい。
手塚治虫アドルフに告ぐ』に、ナチス親衛隊員アドルフが行進曲を弾けと命じるのに逆らって悲しい曲を弾き、射殺されるユダヤ人のバイオリン弾きが出てくる。このキャラクターが、名前もノルシュテインで、哀しげな眼が本人そのまま。
ちなみに87年アニメ・フェスには、まだ元気そのものだった手塚さんも来てた。もちろん手塚さんとノルシュテインは、アニメ作家同士、深い交流があったはず)
 
・・と、前置きが長くなったが。
番組のなかでノルシュテインは、一茶の碑が建ってるお寺へ行って、座禅を組んだり、池のほとりでカエルの鳴きまねしたり、みごとに紅葉したモミジを一葉、枝からつんで胸ポケットにしまったり、じつに楽しげだった。「一茶にこういう句がありましたね」「芭蕉にはこういう句が・・」って、どれも聞いたこともないような句ばっかり!
かと思えば、イッセイ尾形の1人芝居を見に行ったり。趣味のはば広い人だ・・。
ところが、「ノルシュテイン・アニメ大賞」会場では、一転してきびしい顔。日本の若い人の応募作は、どれもこれもカラに閉じこもってる、生活からくるリアリティが感じられない、他の人間どころか、自然にさえ心を開いていない、と。
 
私が、初歩の初歩、あいさつ程度とはいえ、ロシア語習いはじめたのは、大半はフィギュアスケートにハマったからだが、この人の影響も、たぶんある。こんど、どこかでお会いする機会があったら、お礼の「スパシーバ!」ぐらい、ちゃんと言いたいからね・・。